「萌え」とつけたのは半分ギャグで「愛」とかのほうが正しいんでしょうけど…。
有名な「つり橋の法則」みたいな話,つまり「極限(緊張)状態における男女は,その緊張を『恋愛』と勘違いする」という現象は,例えば人質と犯人の間に好意が芽生えたりとか,その他いろんな状況で起きえます。
実はこういう状態で人間が愛(萌えでも可)を一瞬で感じる場合のプロセスとしては
- 情動が発生する。情動は不快でも快感でも無く一種の興奮状態のこと
- 情動を快感(or不快)と認識する
- 快感を好意(or楽しい,美味しい,幸せ…その他)と解釈する
- 好意を恋愛感情(or保護愛,依存愛,征服愛,友情…その他たくさん)と認識する
というようなプロセスを経て,最終的に「わたしはこの人を異性として愛している」と認識するのだと思います*1。
つまり何が言いたいかというと,最初の情動は実は恋愛として解釈認識されるのではなく,単なる「楽しさ」や「(家族愛的な)保護愛」とかになる可能性もあるのです。やっかいなのは,このどっちに転ぶかを決める要素として本人の「思い込み」や「普段良く考えている事」があったりします。だから「彼女が欲しい」と普段考えている人が,あるときヒョンな事と女性と刺激的な体験をすると「これは愛?」とか思ってしまうわけでしょう。でもこの時に冷静に「いやいや,そんなことはない,これは単なる興奮だ」と思ったり「この人に恋愛感情を持つはずがない,これは単なる友情だ」と強く思うとそっちに転ばせることも可能なんだと思います。
逆も言えます。人間は本来子供を守るために「かわいいもの」(丸っこいもの,小さいもの)に好意的な感情を持つという説があります。これもその遭遇時に本能的な情動が発生するわけで,通常の場合「これは守ってあげなきゃ」と思うのですが,普段から他のことに頭が行っていると,「こいつに愛を感じてしまった」と思うこともありえます。
この時問題なのは,普段その人がどういう常識の中で生きているかであり,もう一つ重要なのは,その人がその「情動」を最終的な感情に結び付けるのに,どれだけの「パターン」を持っているかに依るのだと思います。人間知らないことはなかなか感じないものですから(なかには天才がいて新しい概念を産み出すのですが)。
なにが言いたいかというと,本来子供を見て感じる感情というのは家族の間の保護愛に落ちるべき感情なのですが,ちまたにロリコンとか淫行とか幼女虐待とかいうメッセージが溢れているため,情動を生じた大人が誤って「これってこいつに乱暴したいという欲求なのか?」と結論づけてしまっていることがあるのではないか?,ということです。そう考えると,そういうコンテンツが社会に与えている影響っていうのはゼロではないと思います。でもそれ以上にそういう事件とかをバンバン流しているマスコミの影響も強いと思いますが。話がちょっと反れました。
理性がある人は「いやいやそんなことないよ,これは単にかわいいと思ってるだけだよ」と思い直せるんですが,最初の情動から一気に流れちゃって抜け出せない人もいるって事でしょう。まぁ自分の感情を冷ややかに受け止めるっていうのもつまんない人生になりますけど。
昨夜の恋風をみて,ちょっとこの様なことを書く気になったのでした。なんであの二人はあの情動をそっちの方に振ってしまったのだろうかと…。
大人の男性が小さい女の子みてカワイイと思うと気味悪がられるんだから,嫌な時代になったものです。娘や親戚の子供をカワイイと思う感情とちっとも変わらないのに。
「萌え」って感情も情動からある感情に落ち込んでいくときに,出てくるもので,それが最終的なゴール(認識される感情)というより,ある分類に属する途中の段階なのかもしれません。だからうまく言葉で説明できないのじゃないですかね?。
*1:この説はわたしオリジナルじゃないと思いますが,勝手にアレンジしている気がするのでとりあえずネタ元は書きません