前シリーズもそうだったんですが,この作品,個人的な緒事情で上書きで録画していたため,話がわからなくなっても見返すことができず,あまり話自体は理解できてませんでした。まぁでも合田と九課のやり取り,茅葺総理と荒巻のやりとりなど後半盛り上がりました。そういえば後半荒巻はずっと茅葺総理のところにいたねぇ…。素子とクゼの話もありいろいろと仕掛けがあって手の込んだ話だったと思います。作画はずっと良好。このレベルが安定して出せるというのは,日本のレベルはすばらしいと思います。
お話的には,そういうわけであまり理解できてませんが,結局政局だった…ってことでしょうか。合田も九課が取り押さえたわけでもなく,クーデター(っていう表現が正しいかは疑問ですが)の失敗で終焉したという。
以下わたしの勝手な思いですが…。
前シリーズも含めアニメ版攻殻を見ると,どうも自己アイデンティティが過剰にデータ化されてることが気になります。結局体が消失しても,データとしてネット上に存在していれば自己は存在し続ける…という様な思想が感じられます。しかしこれって,「転校生とブラックジャック(ISBN:4000265857)」で述べられているように自分がコピーされたときに元の自分はどうなるか?…という問題であり,本当にそうなのかな?…と。個人的には自己アイデンティティには「身体性」というのは重要だとわたしは感じているため,データになることで自分が保存されるという感覚は希薄です。この辺は原作のマンガの方では何度か話題になっていて,特に1巻の方では注釈に「身体が無くなり脳への刺激が弱くなったら脳の活動は低下する」という様なことが書いてあったように記憶してます。それに限らずマンガの方は自分のゴーストが存在していないことを疑う素子とか出てきて,自己の問題はもう少し皮肉も込めて語れていたように思いますが,アニメ版では前提としてデータでも自己が存在すると言ってるように感じて違和感を感じました。人間は物理的にも精神的に外部との境界を感じることにより自分の自己を決定しているように感じます。ネットという境界のない世界に自己のデータを流し込んだときに自己を果たして維持できるのか?…という点で疑問なのです。
それとそういうアニメ版でありながら肉体を駆使したアクションは大きなファクターとして描かれているし,あとずっと気になっていたのが,茅葺総理とかは義体なのか?…ということ。あと最後にプロトがアンドロイドだったことが明らかになりますが…,どうもこの世界は義体になることが,いいことなのか悪いことなのか…,その間には差別とかはないのか?…とかがあるような気もして…ストーリ時代よりも,その思想や社会構造がうまく飲み込めず,それゆえに共感というよりは外から激しい話を観察している…という感じの視聴態度になってしまったと思います。
…と書いてますが,別に作品を否定しているわけではなく,そういう事も含めていろいろ考えさせられる良い作品,しかもエンターティメントとしても高レベルだったと思います。